日々生み出されるドキュメンタリー

oiroke2005-10-07

ドキュメンタリー作家の森達也はこう語っている。

「ドキュメンタリーは事実のみの集積で、作為的な状況作りなどとんでもないと今も信じ込んでいる人は数多い。僕は胸を張って被写体に干渉するし、場合によっては状況を作るし被写体を挑発もする。作り手と被写体との関係性を描くことがドキュメンタリーの本質なのだと気づいてから、こんなレベル(やらせ。引用者注)で悩むことなどまったくない。」(『世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい』晶文社、p92)


同様のことは『ドキュメンタリーは嘘をつく』草思社2005)の中でも語っていた。もちろんこれは、あくまでも「ドキュメンタリー作品」のあり方を語っているものだけど、ぼくに言わせるとこれは同時に日本のアダルトビデオの本質をも捉えた的確な言葉だと思う。森さん自身、平野勝之がAV女優とツーリングしながらセックスも見せるドキュメンタリー『由美香』『流れ者図鑑』『白THE WHITE』を紹介している点からいって、この見方もまんざら間違いとは言えないだろう。

言うまでもないが、日本にハードコアは存在しない。モザイクが掛かっているからだ。つまり、ぼくらが見ているのは「性交そのもの」ではないのである。

だとしたらこれは何だ? ――そこに映し出されているのは、エロいことをされて(干渉)反応する女の子の姿(関係性)だ。これこそまさに、森さんの言うドキュメンタリーに他ならないのである。

「デビュー作」に始まり、「アナル」や「SM」へと作品がエスカレートしていくのも、必ずしも視聴者の嗜好性に合わせたものではなく、それは日本のAVというもののもつドキュメンタリー性から生じることだと考えられる。いくら魅力的な女優であっても、いつまでも「デビュー作」は撮れないし、「はじめてのアナル体験」も二度目はない。つまり、作り手と女優たちとの「関係性」を作品化していく以上、もっとも恐ろしいのは『慣れ』『新鮮味のなさ』だからである。――