検察が推進している裁判員制度

oiroke2006-10-21

高山俊吉裁判員制度はいらない』講談社)を読んだ。
2009年からスタートするという裁判員制度。その問題点が実によくわかる。
それを推進する側からいうと
「国民の一人ひとりが統治客体意識から脱し、統治主体」となる(司法制度改革審議会意見書)ことを目論んだものだと説明されている。非常にもっともらしいが、実は…というのがこの本の主張だ。
 
一般的なイメージではアメリカの陪審員制度をソフトにしたものだという印象が強いが、実はまるきり違う制度だという。
というのも、本来の陪審員制度では
1.被疑者が容疑を否認した場合のみ行われ、
2.被告は陪審裁判か普通の裁判官によるものかのいずれかを選ぶことが出来る。
しかも
3.審議は全員の一致が原則
なのである。そのためアメリカでも実際に陪審裁判が行われるのは全体の僅か数パーセントに過ぎない。
要するに例外的な方法なのだ。
でも日本は違う。懲役1年以上の重大事件は全て裁判員による裁判にかけられる。もちろん被告が拒否することは出来ない。なにより裁判官も含めての多数決で決まる、という特徴がある。
要するにまるきり違う制度なのである。――この違いはどこから生じたのか?
 
高山氏によると、この差の理由は、陪審員制度はあくまでも「被告の権利のため」に行われるのだが、裁判員制度はそうではない、ということになる。
というのも、この裁判員制度、実はアメリカの陪審員をモデルにしたものではないからだ。
その起源は実は日本にあった。
戦前、日本でも陪審員制度が短期間存在していたことは知られている。では具体的にどういう制度だったのかは、よく知らないというのが実情だ。
簡単に言うと、今の裁判員制度そのままなのである。多数決ということまで同じなのだ。ちがいは裁判員になるのを拒否できないようになっていることだけ。もちろん、これは以前の制度が人々のサボタージュによって破綻した反省を踏まえてのことである。
だから制度趣旨もそっくりだ。
「素人である一般国民にも、裁判手続の一部に参与せしめたならば、一層裁判に対する国民の信頼も高まり、同時に法律知識の涵養や、裁判に対する理解を増し、裁判制度の運用を一層円滑ならしめ」る(『陪審手引き』1931年)。
要するに、帝国憲法の範囲内で行える程度の司法改革に過ぎない。というか、明らかな先祖がえりというべきだ。
だから、「統治主体」といえば聞こえがいいが、要するに国家行為の一部へと吸収されることを意味しているだけである。そして
自分自身を日本国そのものだと思い込んだ連中がどいういうことをしたのか?――
それは歴史が教えてくれるだろう。

裁判員制度はいらない
裁判員制度はいらない高山 俊吉

講談社 2006-09
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