国民の安心を最小限に!

oiroke2006-10-01

 突き詰めていえば、政府の財政面での役割は、
国民に最小限の安心を保証し、民間の自由な競争環境を整える点にあります。
中日新聞」10月1日付け社説

 
「安心が最小限」…恐ろしい言葉である。そして不安が最大限に増大した社会が彼らの望みなのだろう。
これぞ新自由主義ならではの言葉だ。まるで国民の安心を最低レベルまで引きおろすのが国の役割だと言っているみたいだが、まさしくそう主張しているのだから恐ろしい。
 
経済発展の万能・競争絶対の彼らにとっては、経済を少しでも縮小させる恐れのあるものは僅かでも許すことができないのである。
そのためには、一般国民の犠牲もいとわない。純粋経済主義者だ。

でも本当に「競争」だけを純粋に行っているのなら、思想的にはキチガイだが一貫性だけは評価できる。だけど、一度自分が勝者になってからも、ずーっと競争を強いられるのは馬鹿らしい。その権益を守りたいのが人の情である。
だから彼らはこういう奇妙な発言を行う。
 

「政官業のトライアングル」の中で、チャレンジ精神あふれた「業=民間」が自由な競争を通じて元気よく仕事をするには、「政」と「官」の癒着をここで完全に断ち切る必要があるのです。

 
癒着を断ち切れ、ともっともなことを言ってるようだが、よく読むと癒着を切るのは、「政」と「官」だけなのであり、相変わらず「業」は癒着構造にどっぷり浸かったままであることは、簡単に理解できるだろう。
 
というより、「業」が自分のほしいままな行動をとるためには、絶えず「政」と「官」と密着している必要があるということだ。行動には責任が伴う。その責任を取りたくなければ役人に規制を外してもらう必要があるのである。…姉歯建築士の事件が雄弁に語るように。
権益のあるのは政治家と官僚だけではない。むしろ産業界など権益の塊なのである。より癒着構造を求めるのは当然だ。
  
だいたい、当の「業」の一部であるマスコミ・新聞社自身が政・官との癒着を断ち切るなんてことがありうるだろうか。
記者クラブの存続を許しておく姿勢に、彼らのホンネが透けて見える。