進研ゼミは「脱ゆとり教育」を支持・・・(笑)。

ビデ倫は表現の自由を守ります・・・

ゆとり教育」ってはじめて聞いたときから胡散くさいと思っていた。
いい学校に行きたければ塾や通信教育を受けるのが当たり前。
だから、学校だけに「ゆとり」を求めても何の効果も期待できる筈がないのだ。
塾帰り深夜のコンビニにたむろする子供と、
ゆとり教育という奇妙な理想主義。
この溝を埋めるものは何なのか?――
 
この回答は、案外単純なものだった。
ゆとり教育」を具体化する2002年度学習指導要綱の原案をまとめた三浦朱門・教育過程審議会会長は斎藤貴男氏の取材にこう答えたという。
 

 「できん者はできんままで結構。戦後、五十年、落ちこぼれの底辺を上げることばかりに注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養ってもらえばいいんです。」

 「(日本の)平均学力が高いのは、遅れている国が近代国家に追いつけ追い越せと国民の尻をたたいた結果ですよ。国際比較をすれば、アメリカやヨーロッパ点数は低いけれど、すごいリーダーも出てくる。日本もそういう先進国型になっていかなければなりません。それが”ゆとり教育”の本当の目的。エリート教育とは言いにくい時代だから、回りくどく言っただけの話だ。
『言論統制列島』斎藤貴男発言、講談社、2005年、p164。強調引用者)

 
つまり、「ゆとり」は「出来ない子」にだけ当てはまる政策なのである。
しかしながら、エリート教育を立ち上げるためとはいえ、わざわざ一般教育の質まで引き下げる必要はない。
エリートのために、無理やりほかを引き下げる。――
なんて馬鹿げた政策だろう。
これじゃ単にエリートが一般民衆の生殺与奪の権力を見せ付けるだけの、自己満足に終わるだけだろう。
よって、「ゆとり」とは単に「出来ない子を見捨てる」ということしか意味しない。
一方でゆとりを謳いながら、
全国あちこちで「中高一貫教育」という名のエリート学校が新設されている。
こんな言行不一致を見せながら、そのおかしさを誰も指摘しないのだ。

こうして、すでに解消された筈の、古臭い「先進国」「追いつけ追い越せ」が復活した。
彼らの見ている社会は明らかに「選良」の統べる世界。
まるで明治の富国強兵と見まがうばかりである。
こうして、「ゆとり教育」によって「実直な精神」を身につけた一般民衆は…
わかるよね?